2000年12月16日、加島地区住民の永年の悲願であった加島東墓地の移転、そして、新墓地・加島東霊園の竣工・完成の日を迎えました。旧加島東墓地は、墓石が雑然と並び、狭小過密な状態にありましたが、そのことこそが差別の結果そのものであることから、一日も早い墓地環境の改善を願い、取り組んできた成果がようやく実った日でありました。

  墓地をめぐっては、古くは、共同墓地使用問題に対する西大阪水平社の闘いが思い起こされます。
  1925(大正14)年4月1日、加島は大阪市に編入され、従来の大阪府西成郡歌島村大字加島から、大阪市西淀川区加島町に変わりました。このことは、単に行政区画が変わっただけでなく、日常生活や習慣にも大きな変化をもたらしました。その代表的なものに死者の扱い方がありました。当時、村では人がなくなれば土葬にしていましたが、編入された大阪市では火葬にしなければならないとしており、当然、村も火葬を強制されるわけですが、村には火葬する場所がありません。加島全体の共同墓地の焼場があったのですが、「部落の者といっしょに焼かれたのでは、死んだ人も浮かばれない。」という長年の差別意識から、村の人たちの使用を許しませんでした。そこで、西大阪水平社は、「自分たちも加島町町民だから、火葬場を使う権利がある。我々だけに使わせないのは差別だ。」として、当時の加島区長に申し入れ、開催された役員会では、墓地維持のための基本金の分担と葬式の様式に関する契約書を交わすことで了解しました。しかし、その後も役員たちは、葬式の時に通る道筋や服装の制限、また加入金の負担など、村に対してだけ差別的な要求をおこないましたが、これらについても西大阪水平社の抗議により、他地区と同様に火葬場の使用が認められるようになりました。こうした差別は他の多くの部落の歴史の中にも刻まれています。
  旧東墓地は、この事件を契機として、その後、村独自の墓地として設置されたものですが、当時の部落が置かれていた状況もあって、十分な墓地環境を整えたものとはなりませんでした。

 

  新しく完成した加島東霊園の記念碑には、以下のように記されています。
「厳しい差別の中に生き、差別と闘い、その生涯を閉じることとなった先祖への尊崇の念を新たにしながら、(中略)新霊園を前にして、祖先の御霊に報告するとともに、この霊園を安住の地として私たち子孫を守護されんことを念じ、記念としてこの碑を建立する。」

Osaka Municipal Kashima
Human Rishts Cultural Center

大阪市立加島人権文化センター